定例会や年会などの催し物についてお知らせいたします。
ニュ−ズレタ− 第5号
2000/6
1 第5回研究会の記録
第5回研究会は、5月13日東海大学代々木校舎で開催され、5名(上草、太田、岡谷、
村上、柳生の各氏)の出席がありました。
1) 審議決定事項
1.1「総合知学会誌」について
・5/19完成予定。
・印刷代金は上草会長が立て替え、遅くも年度末までに精算する。
・「会誌」は岡谷幹事が保管し、発送する。
正会員には2部発送する。
会用の恒久保存は2部とする。
インタ−ネット会員には、1部1,500円で配布する。
1.2「IN会員」について
・会費が納入された段階で、会員として認める。
1.3 ホ−ムペ−ジについて
・6月中に立ち上げる。
・アクセスカウンタ−を使用する。
・ファイルは以下とする:
a)会員のプロフィ−ル(氏名、研究内容、今後の抱負など)
b)会の紹介(会誌の目次と各論文の最初のペ−ジ、ニュ−ズレタ−など)
c)会則、IN会員会則
d)リンク(会の会議室など、リンク先については、村上会員から推薦をもらう。)
*一部手直し(各個別のサブ・サイトからトップペ−ジへのリンクが張られていま せん)が残っていますが、サイトを立ち上げましたのでお試し下さい。
WWWサイトは二つあります。
・(nifty)http://homepage1.nifty.com/sougouchi/index.html
・(tripod−無料サイト)http://sougouchi.tripod.co.jp/
この下で以下のリンクが張られています。
・gakkai.html(学会の紹介)
・kaiin.html(正会員の紹介)
・kaisoku.html(会則)
・inetm.html(インタ−ネット会員応募票)
・(ニュ−ズレタ−)
・link.html(リンク集)
・bbs2.otd.co.jp/13670/bbs-plain(掲示板)
・what.html(サイトの更新状況)
2)研究発表
当日は全員で<総合知>について討議した。
<質疑応答>
柳生:「宗教知」とは何か?
上草:信仰を共有する人々の間で、言うまでも無く明かなこととして共有されている
知を指す。 言語的に明確化すれば、神学となるだろう。
柳生:その意味では例えばキリスト教の場合は、イエスは神の子であるというのが、
根本的な知の一つであろう。 つまり、「宗教知」とは信仰そのものの
ことか?
上草:直観的・概念的にはそう言える。
村上:しかし宗教を批判的に見ている宗教学者による知、ということも有る。
柳生:宗教学者の知は、宗教学という一つの人文科学に於ける科学知であり、それと
ここでの宗教知は、区別されるだろう。
上草:では逆に尋ねたいが、科学も一種の信仰ではないか?
柳生:科学の営みに従事している科学者は、一群の前提、T. Kuhn の所謂 paradigm
の真理性を信頼し、それらに依拠している。 18世紀に於ける Newton 力学
に対する信頼に、正に宗教的信仰に通ずるものが在ったのは、事実だと
思う。 その信頼が崩れる時の衝撃は、非常に大きかったに違いない。
典型は非 Euclid 幾何学の可能性に気付きながらも Kant 哲学に縛られて
いた C.F. Gauss である。 しかし現代の科学者・数学者の場合は、本質的
に違う。 相対論・量子論・数学と論理学に於ける背理等を知った人々は
最早、自分達の paradigm の真理性を絶対的なものとは見なし得ない。
それは一つの約束、いつ覆されるかも知れない暫定的な真理に過ぎない。
つまり科学知は、常に自己批判・自己否定を内在させる知である。
しかし宗教知はそうではない。 懐疑を去ることの無い信仰は、信仰とは
言えないだろう。 上草先生の「科学知」と「宗教知」の違いは何か?
上草:宗教の問題は非常に文化的であり、文化そのものと言ってよい。 対して
科学は文明である。 言わば文化は質、文明は量の領域に属する。
例えば工業先進国とアフリカの原住民の間に見られるように、文明の
程度の量的比較は可能だが、文化の比較は不可能なものとして、拒否
されなければならない。
柳生:科学知と宗教知の統合を問題にしているのか?
上草:個人の内部で両者を癒合させること、均衡を取ることが重要であると考える。
ヨーロッパに於いては近代科学はキリスト教が産み出したもの、共に
二元論に立つという点で、原理を共有する。
柳生:仏教はキリスト教と違い絶対者・人格神が無いので、時に宗教であるのかを
疑われる。 しかし宗教の本質は祈りに在り、仏教者もまた祈るのである
から、宗教であることに間違いは無い。 祈りとは何か。 人間の知の有限性
を明確に意識しつつも、無限の彼方に、遂に到達し得ない究極の真理の有る
ことを見据える、人はそれに衝き動かされて真理を求める歩みを止めず、
知が留まることも無い、そういう無限の深遠と自らの有限性の越え得ない
隔たりと、翻ってそれを少しでも縮めようとして止まない人の性に畏れを
覚え、雑念を去って合掌せざるを得ない心の働きのことと考える。
柳生:キリスト教の信仰と近代科学の精神は、三つの点で深く関わっていると思う。
第1に自然の法則は、創造主である神の意図の現われであること、第2に神の
似姿である人間が神の意図を理解し得ること、第3はその人間と他の被造物
との間は隔絶していること(自然の対象化)。 一方、仏教の根本の教えの
一つは空、あるいは縁起である。 これと数学的にはゼロの発見、哲学的に
は実体中心の体系から関係中心のそれへの転換、科学的には量子論的
世界像との関わりが、指摘されている。 華厳経の因陀羅網の喩、網の目に
結ばれた無数の珠が互いに映し合っている無限の縁起、あるいは一粒一粒の
塵の中に有りとあらゆる世界の光景を見るという教説は、Leibniz の
monadology に酷似する。 東洋古代の宗教知と西洋の近代的知に通底する
ものを見るのは、興味深い。 中村元氏は「空」に‘relationality’を
充てているが、‘emptiness’などと較べて、真に適訳であると思う。
2 第6回研究会のお知らせ
<第6回研究発表会>
日時:12年7月15日(土)
場所:東海大学代々木校舎(前回と同じ)
司会の決定
1:00−3:30 研究発表
太田哲夫氏:「バイオテクノロジ−と総合知」
コ−ヒ−ブレ−ク
4:00−5:00 ・各自のアンケ−トの発表
・各種案件の審議
会誌編集上の諸問題について(上草会長)
会誌印刷代金の経理について(岡谷)
例会における質疑・応答の取り扱いについて(柳生先生)
ホ−ムペ−ジのデザイン決定
9月の山中湖セミナ−について(上草会長)
・事務局より報告
会誌発送状況と、会誌の会計について
ホ−ムペ−ジの進捗について
・次回の日時、発表者の決定
ニュ−ズレタ− 第6号
2000/9
1.第6回研究会の報告
第6回研究会は、東海大学代々木校舎で開催され、7名(上草、上村、太田、岡谷、
辛島、村上、柳生の各氏)の出席がありました。
(1)報告・審議決定事項
1)会誌編集上の諸問題(上草)
上草会長より、「総合知学会誌編集に関する反省と意見」(2000−2)が提示され、反省点と改善策が示されました。まづ<投稿法と編集プロセス>については:
a)投稿論文は、誌上に発表できるグレ−ドのものを提出する。
b) 編集時期には、各会員の最終稿を編集者にe-mailで送付し、画面上で修正意見を受け訂正する。その後統一した書式で指定されたページを打ち、編集者に最終原稿の送付をいただく。
c)図版コピ−した場合は、それを一度スキャナ−で文中に取り込み、モニタ−上で適正編集を自ら行う。ただし画質が不十分な場合は、最終訂正稿に丁寧にコピ−した図版を両面テ−プで貼り込む。この場合、図版の傾き等のないように注意する。
次ぎに<送り仮名や表現、漢字の使用>については、投稿者が注意し、編集時に校正者の指示に従う。さらに<文字の大きさや体裁>については前回不統一があったので、次回にはvol.1に真似て全体の統一を図る。
2)会誌発送状況(岡谷)
現在会の保存分2部を含め、残部15部である。
会誌の会計については上草先生に費用を立て替えていただいているが、残部を解消した時点で精算するか、または今年末に精算する。
3)HPについて(岡谷)
岡谷事務局よりこれまでのホ−ムペ−ジ作成の経過の説明のあと、各サイトの紹介と検討がなされた。
a)正会員はB会員に、インターネット会員はA会員に、総会は年回に、月例会は定例会に改める。
b)A会員は、会費を納入した時点で登録する。A会員の会計は、B会員(設立会員)と一緒にする。
c)A会員応募は、氏名、連絡先、所属、住所、専門分野、論文等を記載していただく。
d)A会員からB会員へ移動した場合、会費差額分を徴収する。
e)学会の紹介では会の趣旨は上草会長の文面によること。ここで会員の品位が謳われている。
f)他の諸学会とのリンクについては次回検討する。
g)ニュ−ズレタ−はwhat's newと相互にリンクさせる。
4)研究会での質疑・応答の取り扱いについて(柳生)
これについては、次回研究会で検討する。
5)明年の総会開催について(上草)
上草会長より、明年A会員、B会員合同の総会を開きたい旨提案がなされた。
(2)研究発表
太田氏より「バイテクノロジ−と総合知」の研究発表がありました。
<質疑応答>
(柳生<−−>太田)
柳生: Genome、遺伝子、及び DNA の塩基配列の諸概念が時に曖昧に、
あるいは混同して用いられているように思う。
Genome が「ある生物が持つ遺伝情報の全体」(資料1頁)とすれば、
それはどの生物についても単一、ところが例えばヒトについては
DNA の塩基数は約30億対(料7頁)、遺伝子は約8万(資料9頁)と
あるから、三者は明確に使い分けなければ いけないだろう。
新聞報道等の「ヒト genome の解読」がほぼ完了という表現は、
正確には「塩基配列の同定」とすべきである、というように。
また資料7頁の「ゲノム解析とは ・・・ 塩基配列を全て決定すること
・・・ 正確には「ゲノム構造解析」と呼ばれている。
全塩基配列を決定し、そこに書かれた遺伝子を全て同定して
アミノ酸配列を決定することが、ゲノム構造解析である。」
という定義も、解析の前段階(塩基配列の決定)と後段階(遺伝子と
アミノ酸配列の同定)を分けた方が、より明確ではないか?
太田: そうだろう。
<事後の所見>
1)解読されたのですから、「塩基配列の”同定”」ではなく、
「塩基配列の”決定”」といった方がよいでしょう。
2)「ゲノム解析」は資料7頁の下から6行目(空き行を除く)にも記載の通り、
「ゲノム構造解析」と「ゲノムの機能解析」に分類されます。
「ゲノムの構造解析」とは、ゲノム全体に書かれている情報の洗い出しであり、
具体的にはゲノムDNAの全塩基配列を決定することであり、ゲノム上の遺伝 子やそれを制御している領域を全て明らかにすることです。
その次のステップとして「ゲノム機能解析」を行い、各々の遺伝子が
どのような蛋白質(ポリアミノ酸)を作り、それがどんな働きをしているのか、 どのように発現制御されているのかを解明していくことになります。
さらに、その機能を有する蛋白質がどのような立体構造を有し、その機能と
立体構造(翻訳後修飾も含む)との関係はどうなっているのかを解明する
プロテオーム(Proteome)に関する研究が注目されつつあり、競争が激化してま す。そしてさらに、各遺伝子が相互にどのように作用しあって働いているのか を解明し、それをもとに生命システム全体を再構築していくことが目標となっ ており、上述した研究成果を総合的に活用させ医療や産業に反映させることに なります。
現在は、ヒトゲノムがやっと解読されたばかりであり、個人間では一塩基多 型(Single Nucleotide Polymorphism:SNP)が1000塩基中に一箇所の割合で
存在していると考えられ、ヒトゲノム中では、300万〜1000万個のSNP sがあると推定されているため、SNPsの解析も重要なプロジェクトとして
注目されています。
3)かつては、遺伝子=DNAと考えられていましたが、現在では、資料5頁 に記載した通り「ゲノムの中で機能性分子の作り方を規定している部分」との 定義が主流となっています。
即ち、機能している蛋白質やRNAに翻訳されるゲノム上のDNA部分が遺伝 子です。なお、アミノ酸の情報は、3つの塩基配列で決定されることは、ご承 知のことでしょう。
> 柳生: (OHP資料中の‘Minimum Genome Factory’及び‘Minimum Genome Cell’
> に関連して)望みの機能の発現に必要な遺伝子の最小の組という発想は、
> 自然界には稀な純粋な化学物質の合成に似た、一種の抽象化であろう。
> そのような抽象化と、その産物の大量生産・使用が深刻な環境破壊の主要
> な原因の一つである。 最小組に含まれない、一見無関係な遺伝子の
> 存在が、遺伝情報発現の暴走の抑止に与っている可能性を、否定できない
> のではないか? そう考えると、(例えば米国の)遺伝子組換えは自然の
> 過程を単に時間的に短縮したもので、無害であるという主張は、論理的・
> 科学的に誤り、ないし危険な飛躍を含んでいるのではないか?
太田: (無害であるという主張は、論理的・科学的に誤り、ないし危険な飛躍を含 んでいることに関しては)その通りである。
<事後の所見>
1)‘Minimum Genome Factory’及び‘Minimum Genome Cell’の基本コンセプト
現在地球上の生命体は約35億年前の生命の誕生以来、
進化してきた結果として存在しているものです。
この間、さまざまな生育環境に遭遇し、そのような環境変化に耐え抜いて
生き抜いてきた生物だけが、現存しているわけです。
従って、微生物を例にとってみても、通常の環境下で生きていくために
必要な遺伝子以外に沢山の遺伝子を保有しています。例えば、あるアミノ酸を
不足している環境下におくと、シグナルとなる物質が生成され、代謝活性を低下 させて、その環境に耐えようとする。即ち、そのような環境下に置かれた時のみ、
必要とされる遺伝子を備えているわけである。
このような遺伝子は、人為的に設定された制御された環境下でのみ、
生育する工業微生物にとっては、必要のないものである。
換言すると、工業生産プロセスに利用する微生物は、自然界に存在する微生物 が保有している遺伝子の一部のみ保有していれば、十分であると言える。
さらに、微生物を「生産工場」として用いる場合、特定酵素の活性を強化したり、
外来遺伝子を導入して本来作らない物質を生産させたりすることなどが
必要となるが、現実としてそれらは実際に可能であり、実用化されている。
しかし、自然界に存在する微生物は、当然遺伝子のフルセットを持っているた め、他からの遺伝子を受け入れるキャパシティに限界があるし、当該微生物が有 している代謝活性の一部しか(人間にとって)有用な物質生産のために利用して いない。
また、目的生産物を分解したり、それらをさらに代謝させ、無価値な物質に変 換させたりする活性も有していることが少なくない。
そこで、生育のみ必須となる遺伝子を保有する微生物を育種すれば、他から人 間にとって有用な物質の生産に係わる遺伝子を受け入れるキャパシティが広が り、かつ余分な代謝活性を持たないため、直ちに生産のためのホスト(宿主)と して使用でき、かつ副生物の少ない効率のよいプロセスが成立することが期待さ れる。
以上が‘Minimum Genome Factory’及び‘Minimum Genome Cell’の基本コンセプ トである。
2)そのような抽象化と、その産物の大量生産・使用が深刻な環境破壊の
主要な原因の一つである。
上述した基本コンセプトに基づく物質生産は、きちんとした物理的封じ込みが
なされた施設で外部と遮断されて行われ、使用後は、滅菌処理されることが
大原則であるので、上記の指摘は首肯し難いと考えます。
3)最小組に含まれない、一見無関係な遺伝子の
存在が、遺伝情報発現の暴走の抑止に与っている可能性を、否定できない
のではないか?
ゲノムの構造が判明しても、機能との関係が明確になっていない現時点の科学水準 では最小組に含まれない、一見無関係な遺伝子の存在は否定も肯定もできない。
「最小組に含まれない、一見無関係な」とは、現在の科学レベルでの
推測でしかないのではないかと考えます。
(柳生−−>太田)
早速の御返事、有り難うございました。御教示頂いた事柄は、大変参考になります。
ただ二点、所見を補足したいと存じます。
1)解読されたのですから、「塩基配列の”同定”」ではなく、「塩基配列の
”決定”」といった方がよいでしょう。
「同定」という単語は、狭くは生物の分類上の所属を決定すること、広くは
二つの対象が同一で有ることを確認すること、の意であると理解しております。
つまり「決定」の一種であり、逆に言えば「決定」は「同定」よりも更に広い
意味を持つ、という訳です。
塩基配列の解読の場合は、配列上の位置を n、そこでの塩基対を f(n) とすると、
f(n) が4種の塩基対の何れに等しいかを確認するのが課題ですから、「同定」
という言葉を用いました。 勿論、「決定」と言っても誤りではありませんが、
「同定」の方がより精確であると考えた次第です。
2)そのような抽象化と、その産物の大量生産・使用が深刻な環境破壊の
主要な原因の一つである。
上述した基本コンセプトに基づく物質生産は、きちんとした物理的封じ込みが
なされた施設で外部と遮断されて行われ、使用後は、滅菌処理されることが
大原則であるので、上記の指摘は首肯し難いと考えます。
小生の懸念は物質生産の場からの環境汚染ではなく、遺伝子を組み替えられた、
自然界に無い生体ないし食材が、市場に出回った後に、増殖を通して遺伝的な
暴走を引起す危険は無いか、という点に在ります。 欧州諸国の批判もここに
向けられていると、認識しております。 遺伝子組み替えを自然的進化と同一視する
米国の主張は、論理的・科学的に正当性を欠くのみならず、誤りであることが
後日判明した時は、取り返しのつかない事態を招いてしまっているのではないか、
ということです。
(太田−−>柳生)
> 1)解読されたのですから、「塩基配列の”同定”」ではなく、「塩基配列の
> ”決定”」といった方がよいでしょう。
>
> 「同定」という単語は、・・・・ 二つの対象が同一で有ることを確認すること、
・・・・つまり「決定」の一種であり、逆に言えば「決定」は「同定」よりも更に広い
> 意味を持つ、という訳です。
> 塩基配列の解読の場合は、配列上の位置を n、そこでの塩基対を f(n) とすると、
> f(n) が4種の塩基対の何れに等しいかを確認するのが課題ですから、「同定」
> という言葉を用いました。 勿論、「決定」と言っても誤りではありませんが、
> 「同定」の方がより精確であると考えた次第です。
「塩基配列の解読の場合は、配列上の位置を n、そこでの塩基対を f(n) とすると、
f(n) が4種の塩基対の何れに等しいかを確認するのが課題ですから・・・・」
太田:DNA塩基配列の解読は、一本鎖DNA上に4種の塩基のうちの何が、
どのような順番で並んでいるかをひとつひとつ判読する操作を続け、
最後にそれをつなげて未知なるものであった該生命体が保有する全DNA配列を
決定する作業です。
その判読操作においては、4種の塩基(対ではない)の何れに等しいかを確認する
まさに「同定」を行っているのですが、この操作はコンピューター付シクエンサーを
数多く装備したバイオベンチャーのCelera社が力任せにやっつけ、
ヒトゲノムプロジェクトにおいて多大な貢献をしたことは、世の人の知るところです。
しかし、最も大事なのはその塩基の「並び方」である遺伝暗号の解読にあるのですから、
使うとすれば、塩基配列の「同定」ではなく「決定」、よりふさわしくは「解読」の方が
よいのではないかと考えます。
犯罪操作や親子鑑定の場合などでは、「同定」なる使い方もよいでしょう。
> 小生の懸念は物質生産の場からの環境汚染ではなく、遺伝子を組み替えられた、
> 自然界に無い生体ないし食材が、市場に出回った後に、増殖を通して遺伝的な
> 暴走を引起す危険は無いか、という点に在ります。 欧州諸国の批判もここに
> 向けられていると、認識しております。
2)「遺伝子を組み換えられた、自然界に無い生命体が市場に出回った後に、
増殖を通して遺伝的な暴走を引起す危険は無いか、という点に在ります。」
太田:まさにその点に関しては、この分野の「まじめな」科学者は真剣に考えており、
例えば、植物では当該植物の「不稔性」遺伝子を同時に組み込んだり、
自然界において種子から発芽、成長する際に必須となる(不可欠な)酵素系の
遺伝子(群)を除去したりするなどの努力をしているところですが、
ご指摘のように、実験レベルで安全が確認されたとしても、
何らかの未知または想定を超えた条件下で、増殖を通して遺伝的な暴走を
引起す危険性は100%ないとは言えません。
その意味で、小生も欧州諸国の主張は理解できます。
>太田:
>まさにその点に関しては ・・・ ご指摘のように、実験レベルで安全が確認された
>としても、何らかの未知または想定を超えた条件下で、増殖を通して遺伝的な
>暴走を引起す危険性は100%ないとは言えません。
(柳生−−>太田)
御答え、有り難うございます。 この問題は大変深刻であると同時に、興味深くも
ありますので、新たな知見が有りましたら、引き続き御教示下さるよう。
2.山中湖セミナ−のお知らせ(上草)
上草会長より、9/15−9/16開催予定の山中湖セミナ−について説明がありました。東海大学セミナ−ハウス近辺の地図2枚が提示されました。詳しいプログラムは追って会員に連絡するとのことです。
ニュ?ズレタ? 7号
2000/11
1.第7回定例会の報告
第7回定例会は下記のようなプログラムによる、東海大学山中湖セミナ?でした。
初めての試みでしたが、環境も良く、また内容の充実したセミナ?でした。
上草会長のご尽力と、会員の皆様の熱意に感謝もうしあげます。
<第1回総合知学会山中湖セミナ?発表プログラム>
2000/9/15
13;00?16;00 辛島 「リスクと安全」 論文発表
16;00?16;15 コ?ヒ?ブレ?ク
16;15?17;00 岡谷 事務的狭義.連絡 その他
2000年9月16日
8;30?10;00 上草 「石油資源枯渇予測と社会的リスク」 話題提供
10;00?10;15 コ?ヒ?ブレ?ク
10;15?12;00 村上 「空・仮・中の三諦論の自然学上の
解釈と展開」 話題提供
12;00?13;00 昼食
13;00?15;00 上村 「自己意識のモデルについて」
以後解散
1.1 審議決定事項
1)討議の記録について(柳生)
「討論記録確定の手続き(案)」により、柳生先生の提案がなされた。会員の了承が得られたので早速実行する。また柳生先生よりその後ご提案があり、次回の定例会でもさらに検討することとなった。
2)HPについて
上草会長よりHPの掲載サイトと、学会広告欄書式候補の提案がなされ、この方向で進めることとなった。
1.2 研究発表
<質疑応答>
上草: リスク回避の科学合理的方法論であっても、日本の文化性にあわない
のでないか?
辛島: Platform を含む「共同的リスクに取り組む型(D)]は、むしろ日本文化に
沿うものであろう。
田島:(1)工場で発生する災害とその防止努力など; ご発表のうち、前半の
部分は、私の関心と合致せず、分からないことが多かったのですが、後半の危険、
安全といった具体的な問題を取り上げられた点について、異なる体験をしている者
として関心があるので、以下の感想を述べます。私は、製造業で三十数年働いて
きて、大半は研究所にいましたが、工場の経験も数年はあります。工場では、常に、
至る所に人身災害の潜在的な危険性があります。その中味は、?高所からの落下、
?落下物体の飛来、?機械の上下や移動機械による挟まれ、?高温のガスや
溶体による火傷、?洩れている有毒ガスによる中毒など、様々なものです。
<このほかにも、つまずきや転倒による怪我、爆発時の爆風による怪我、構内交通
に関連した事故、放射能被爆など、数え上げると大変な種類になります。>
実際に災害が発生すると、後の処置が大変です。 <工場幹部を含む関係者数十人
が一堂に会し、そこで、災害の発生状況、被災者の被災状況と現在の状態、想定
される原因、反省点、今後の防止策などについて、主管部署から報告をし、それに
ついて質疑討論が行われ、場合によっては、「吊し上げ」に近い追求があります。
死亡、重傷災害の場合には、警察の立入調査が行われます。> この場合、当然、
保険(労災)に加入していて、金銭的な補償は行われますが、そのことは、何らの
言い訳になりません。工場では、兎に角、こういう災害の発生を防止するための
様々な活動を日常的に行っています。<定例的に、潜在危険個所を摘出し、改善
するための安全パトロールなどが行われています。> 工場では、「安全」とは
「事故を起こさないこと」とほぼ同義です。 事故の事例について、情報開示が
行われれば、広く参考になるでしょうが、従来は、まずそれは公表されていません。
(2)生産設備の異常; 安全から離れるかも知れませんが、製造業にとって、
生産設備が順調に稼働し、計画通りの生産が達成されることが極めて重要です。
ある種の設備(ex.:製鉄所の高炉)は、一度異常になると正常に戻すのが、極めて
難しいのです。1ヶ月にもわたって異常(極端な場合、生産量が1/10に減少する)が
続くことは、経営上の大問題となります。こういう場合に対処し、復旧させる
ために、20年以上も前に退職した超OBを呼んで、経験に基づく意見を聞くという
こともしています。
柳生:経験的な知を体系化し、文書として学習・教育可能な形に整理できない
ものか。
田島:CD-ROMなどの電子ファイルの時代になり、膨大な文書の保存が可能に
なったとは思いますが、この場合には、検索して文書から理解できる以上のものが、
経験者の口述と実地指導で得られるという気がします。
柳生:[事後の所見]技術の伝承の困難が屡々指摘されるが、経験知の理論知化、
それに伴う文書化が問題の解決に必須であろう。
田島:(3)用語としての「安全」と「保全」; 安全とは「違うものを持って
きてでも、実質的な機能を維持する」ことで、保全とは「そのまま同じ形に戻す
こと」というように言われたと思います。しかし、工場で「設備保全」というとき
には、前者の意味で使っているように思いますが、いかがですか?
ほかに、「予防保全」という場合も同様でしょう。
柳生: 辞書は単語の用例集に過ぎず、意味を定めるものではない、という見解
であるが、(D. Hilbert や W.V.O. Quine の主張に沿えば)寧ろ用例の総体
こそが、単語の意味(=その単語の示す概念の内容)に他ならないのではないか。
公式的な定義に当っては、用例の純化・厳密化・形式化が必須であろうが。
[事後の所見]結果としての害毒と、安全・害毒双方の可能性を含む、
(‘risk’に相当する)未決定の状態を区別する必要が有る、という指摘は、
適切であると思う。 しかし前述の、文の意味に基礎を置く単語の意味決定を
踏まえると、後者に「危険」を充てるのは、再考を要するのではないか。
「潜在的危険」、「危険の増大」、「危険な目に会う」、等々が意味を失う 一方、
「危険」を「害毒」で置換えた文は、必ずしも意味を保存しないからである。
「害毒の増大」は、「危険の増大」が負の結果が生ずる可能性の増大を意味する
のに対して、負の効果の増大を意味するし、「危険な目に会う」のは「害毒に
晒される」のではなく、寧ろ間一髪それを逃れた色合いを示すように。
我々は概念の定義と言葉の選択にに当って、社会的に確立・定着している文の
意味と使用を尊重することから出発しないと、いけないのではないか。
辛島:[事後の所見] HilbertやQuineの件については後日改めて説明し直して
みますが、〈安全・害毒双方の可能性を含む、(‘risk’に相当する)未決定の
状態〉に「危険」の語を当てることの問題点として、〈「潜在的危険」、「危険の
増大」、「危険な目に会う」、等々が意味を失う点を問題にしておらますが、
その点について、補足説明をしたいと思います。危険と害毒は区別する立場です
ので、後半は問題がないので。
「危」の字が崖の上ないし下に人がうずくまっている様を描いたもので、実際に
崖っぷちに立ってはじめて問題を認識する場合もあれば、遙か前方にそういう厄介な
崖を発見して問題を認識する場合もあるでしょう。それに対して、道が曲がり
くねっていたりして、物理的には直接崖が見えなくても、周囲の条件等々の知識
から、崖の存在を推理することもできます。「潜在的危険」はそのような場面で
使われています。危険の予知という使い方も似た状況です。当然崖淵に立って
いる状況とは異なり、その段階では多様な回避や対策が可能です。ドイツの
小学校の低学年用のリスクの訓練の教材には楽しく川遊びをしている場面を中心に
描きながら、その先には滝壺のある景色を用意し、今問題にしている場面の次に
予想される景色を考慮に入れて行動させる指導をしています。ボールを追い
かけて、校庭からいきなり道路に飛び出すとどういうことが起こりうるかを考えさせ
るのもこの種の訓練です。riskを問題にする社会では、riskは直接目の前に迫って
いないこともあってか、見えることをはじめから期待していないように思われます。
それに対して、漢語由来の日本語「危(険)」は「崖」のイメージが強いばかりで
なく、遠くの景色として崖が見える段階では問題を認識した場合でも「安全策」を
練ると表現して、危険策を練るとはいいません。崖に気づいたからこそ安全策を
考えている事は確かですが、かえって目的を強く認識するのでしょう。しかし
欧米社会ではそういう場面で安全策でななく「risk management」を使います。
そういう物事の捉え方をしているともいえます。さらにいえば、日本人にとって、
危険は単に問題の崖を発見するだけではなく、かなり崖淵に近づいて問題にする
ことをも意味しています。いいかえると危険の認識の時間的距離の射程は
恐怖感を伴うほど短い、狭いことを示唆してもいます。「危険な目に遭う」は
その射程内に入ったことを意味しています。欧米流にいえばもはや「risk」
ではなく「peril」で表現される状況下に近い危険の認識です。
「危機」は「危険」と比べれば害毒結果に至るまでの心理的距離感は「間一髪」
で表現されるようにもっと差し迫っています。もっといえば、「peril」を日本訳
では「事故」ともします。日本人なら事故に遭遇すれば被害したことに等しいの
ですが、欧米社会では「間一髪」であれ、まだそこに残された可能性を見る言葉を
あてています。それだけ危険概念の範囲の言葉を使い分けて、危険に対処
しようとする執念の強さを見せつけられる思いです。ちなみに事故の訳として
使われる「accident」は偶発性にウエイトのある言葉です。日本人ならとっくに
諦めて手を挙げている状況下で、あくまで危険概念の範疇にある言葉を使い
続けています。逆に言うと、なんでも「危険」の語一つで済ませていられる
現代日本社会では危険を冷静に見つめることを難しくしています。危険の
状況説明は文脈に依存せざるをえず、正確にこちらの状況や思いを相手に
伝えられているかどうか、大いに問題になるのです。
「危険の増大」の場合には害毒結果に陥るまでの時間的心理的射程距離が
短くなっていくことを意味することになります。普遍的な概念の説明では文化的な
捉え方の癖の部分は切り捨てますが、しかしその癖の原因も説明可能ですから、
「危険」の普遍概念の説明としてはそれで必要十分であると考えています。
どうでしょうか。
なお上草先生のコメントに対する「共同的にリスクに取り組む型」は「協働的に
リスクの取り組む型」と字の訂正を御願いします。「協働」は現代の流行語で、
検討が必要な言葉です。後で変えるかもしれませんが、とりあえず、その言葉で
説明いていますので。
なお、安全の概念の説明に「事故のないこと、すなわち無事なこと」だけで
なく、「所期目的を達して」ともう一つの目的を必要十分条件としてくわえて
います。工場で安全を事故のないことととらえているのは、工場の操業は
大前提になっていて、いうものがなだからです。しかし概念定義としては
必要な要件です。ちなみに「safety」の概念はこの説明とは異なります。
安全学を「holonomy」としている理由もそこにあります。文化や社会の違いを
超えて共通性を強調するものもあれば、違いを強調しなければならないものも
あります。一般論では片づけられません。
柳生:[事後の所見]上記の辛島氏の所見に対して、下記を補足致します。
(1)「危険」の用例を踏まえると、この言葉は一般的に安全・害毒双方の可能性を
含む状態ではなく、遭害の確率が高い、ないし害毒が目前に迫った状況を指すと
思う。 辛島氏所見の第2段落も、同様の解釈を下しているものと解される。
それ故にこそ、これを‘risk’の訳語に充てることに、疑問を呈したのである。
(2)同じく辛島氏が示唆するように、寧ろ「潜在的危険」が適訳ではないか?
(3)「危険」が「害毒」の切迫を指すとしても、前者を後者によって置換える
ことはできない。 とは言え、「危険の増大」等の文の有意味性を救うために、
より相応しい置換えを見出すことも難しい。(例えば「遭害の可能性」を、「危険の
増大」の「危険」に代入することはできるが、「潜在的危険」や「危険な目に会う」
に対しては、そうは行かない。) つまり、様々な用例に共通して現れ、それらの
意味を束ねる「危険」という単語の役割、ないし「危険」の概念が、雲散霧消して
しまうのである。 従って、「危険」と「害毒」を区別する立場を取れば、両者の
互換不可能性は問題ではない(辛島氏所見第1段落)、と言うだけでは
済まないのではないか?
(4)「普遍的な概念の説明では文化的な捉え方の癖の部分は切り捨てますが、
・・・ 「危険」の普遍概念の説明としてはそれで必要十分である」(辛島氏所見
第4段落)の部分は、理解に困難を覚えるが、仮に「語の表す「普遍的概念」は、
その語が使われる文化的背景を捨象することによって獲得される」の意であれば、
首肯し難い。 当然‘risk’の普遍的概念も、この語に纏わる欧米社会の
「文化的な捉え方の癖」を切り捨てて、定義しなければならない。 しかし、
かかる文化的背景の捨象の結果、残る「普遍的概念」とは何なのであろうか?
それは極度に抽象的にならざるを得ないが、最も抽象的とされる概念、例えば
形式論理や純粋数学の概念ですら、文化的文脈から離れては、説明を全うし難い。
「ゼロ」の概念が仏教の「空」と密接に関わっており、実際、現代数学的な定義は、
「空」の論理的説明と驚くほど似ているのであるが、中国仏教の「空」が必ずしも
インド仏教のそれと合致しないのは、中村元氏の指摘する所である。 とすると
世界は、「ゼロ」の普遍的概念を手に入れているのであろうか?
更に疑問の源に遡るならば、そもそも「普遍的概念」とは如何なるものなのか、
それは如何に獲得し得るのか、という問題に辿り着く。 しかし今これ以上に
立ち入って論じるのは、控えたい。
辛島:[事後の所見]柳生先生より新たに「事後の所見」を頂いた論点に対して、
補足説明をいたします。
(1)について;
概念の特徴を定性的なものにとどめ、定量用語は敢えて避けました。危険と認識する
からには「害毒結果になりうる可能性」を懼れていることは確かでしょうが、仮に客
観的に遇害確率が設定できるとしても、神経質な人なら可能性があるというだけで震
え上がるかもしれませんし、逆に自信がある人なら、客観的には相当の悪条件下でも
油断してはいけないと心掛ければ十分と解釈するかもしれません。悪い結果が発生し
そうな切迫した状況にしても、人により様々です。概念の説明の目的は、直接には現
代日本語「危険」の説明でもなく、また「リスクの訳語」の模索でもなく、現代日本
語「危険、あぶない」現代英語「danger,risk,peril,hazard」のそれぞれの意味の特
徴を一纏めにした「分類語」を設定することにあります。これは(2)(3)(4)
に対する説明にもなりましょう。
(2)について;
「risk」の訳語については保険用語で「危険」としていますが、欧米社会の使い方を
みていると、むしろ「冒険」の意味を強調する訳のほうが適している場合が少なくあ
りません。「確率」の訳語は放射線医療分野でよく使いますし、工学や環境分野では
更に「事故(ないしは被曝)確率×被害の程度」という抽象的な定義をしています。
一対一に対応する言葉が無い以上、文脈で、あるいは専門分野で、何を強調してその
語を使っているかで多様な訳になっても当然です。「危険な目にあった」は切迫状況
を示すものの、決定的な被害にあわなかった事を示唆していますから、今後も使われ
て誤解されないと考えます。しかしリスクの用語が導入されてきている現代では「潜
在的危険」というのは使われなくなっていくのではないでしょうか。現代社会ではも
はや目に見える公害問題や急性毒性的問題は少なくなり、見えにくいものにもっと注
意を払っていく必要があり、それも含めて「危険を認識すること」は何も見えるもの
にこだわるものではないと説明していく必要があるようにすら思われます。
(3)について;
上位に位置する分類を用意することで、下位の個々の言葉の意味をむしろ積極的に適
切に位置づけることができると考えています。なお、ここのご指摘の意味がよく分か
りません。
(4)について;
「普遍的概念の説明」と少々肩肘張った表現をしたことが誤解を招く原因になったと
反省しています。形式論理学や純粋数学における厳しい「概念」「普遍」の意味では
ありません。
通常議論するレベルのひとつ上位の「分類語」の設定であり、その限りで必要な説明
を加えたにすぎません。「文化的な捉え方の癖を切り捨てて」というのも一ランク上
の「分類語」の説明としてであり、文化的な特徴を切り捨てることに目的があるどこ
ろか、むしろ多様な文化的、社会的、専門的捉え方の特徴の違いを比較可能にするた
めに設定した操作上の抽象観念として考えてきたものです。
「概念」といってもその抽象の程度はいろいろでありうるわけですが、安全学で目指
しているのは安全問題にかかわる多様な立場や価値観の人々ができるだけ客観的に議
論できるために必要な整理や体系化を目指しており、それぞれの特徴の違いを比較可
能にして相互理解を深めるに役立つ限りでの抽象化や概念の説明にとどまっていま
す。そのため、はじめの問題に戻りますが、現代日本語「危険」の表記で「安全な結
果に終わる可能性と害毒結果に終わる可能性の両方の可能性がある」としました。一
つ上位の分類語には新語の方が誤解は少なく、下位の言葉をそのまま使うことは混乱
を招くもとです。しかしたいした抽象ではないものの、それでもそういう抽象概念に
新語では理解と普及には多くの困難が伴います。
「事前プロセス」が相対的にその重要性を増してきている現代では危険についてじっ
くり考える事が必要になってきています。研究会の場では已然形と未然形の区別、つ
まり結果状態とそれ以前の状態の区別は当然と理解されていますが、現実にはその区
別のできない議論が横行しています。それに漢和辞典を見ると一目瞭然ですが、「危
険」以外にもいろいろな場面を特定した「危」を使う言葉が豊かにあります。しかし
現代では「危ない」しか使えなくなっています。結果状態の説明でも多様な言葉が必
要ですが、それ以前に対策も考えなければならない「結果に至る過程や状況」の言葉
が貧弱すぎて的確な議論でさえ既に困難な状態にあります。文脈でいい分けるのでは
なく、出世魚の名付けのように、必要に応じてもっと細かく言葉を使い分ける事が必
要であると考えています。「risk, peril,hazard」などは現代日本語の「危険」と捉
え方が違うとはいえ、もっと細分化されて使いわけられています。とりあえず、リス
クの言葉が導入されてきている現状を考え、さらに今後の細分化を予定すれば、現代
の「危険」の語を一つ上位の分類語にしたてることは、結果としても、またその経緯
か過程においても混乱を最小限に抑えるものと考えました。
「我々は概念の定義と言葉の選択にに当って、・・・」(柳生発言)について;
ご指摘に賛成です。ただ将来の事も考え合わせて「危険」の語を選びました。
柳生:[事後の所見]先の弊所見(3)についての辛島氏の疑問に対して、
説明を敷衍致します。
(3.1)「潜在的危険」、「危険の増大」、「危険な目に会う」等々の文が、
「危険」を「安全と害毒双方の可能性を含む、未決定の状態」と解することに
よって、意味を失う。
(3.2)しかしこれらの文の、我々の言語生活に取っての重要な働きを、
切り捨ててしまう訳には行かない。
(3.3)では、どうすれば良いのか? 「危険」を別の言葉に置換え、しかも
置換えによって、これらの文の意味が保存される可能性を探る他無いだろう。
(3.4)「危険」が「害毒の切迫」ないし「迫りつつある害毒」の色合いを帯びて
いることに鑑み、「害毒」が代替語の候補として挙げられても、不思議ではない。
実際「潜在的害毒」、「害毒を避ける」等々は、「・・・ 危険 ・・・」の意味
保存的置換であると言ってよい。
(3.5)しかし(3.1)の他の二例に対しては、そうは行かない。
(3.6)「害毒」の代わりに「遭害の可能性」を用いても、やはりうまく
行かない。
(3.7)恐らく、意味保存の点に於いて「害毒」よりも優れた置換を見出すのは、
難しいのではないか?
(3.8)とすれば、「危険」と「害毒」を区別する立場では(3.5)は問題ない、
と言って済まされないだろう。
(3.9)無論、(3.2)を拒む、即ち(3.1)をあっさりと受け入れるという
立場では、ここに取り上げたことは、始めから問題にならない。
2.第8回定例会のお知らせ
日時:2000/9/25(土) 1;00?
場所:東海大学代々木校舎(前回と同じ)
司会の決定
1:00?3:00 ・研究発表
発表者:上草貞雄 先生
題目:「知とその環境」試論
3:00?4:00 コ?ヒ?ブレ?ク
4:00?5:00 ・事務的事項の討議
1)討論記録確定の手続きにつぃて(柳生先生)
2)HPについて(上草会長、岡谷)
3)次回発表予定者(神戸大 角田先生)について
(柳生先生)
ニュ?ズレタ? 第8号
2001/1
1. 第8回定例会の報告
第8回定例会は、12年11/25,東海大学代々木校舎で開催され、6名(上草、岡谷、田島、村上、森田、柳生の各氏)の出席がありました。
また今回よりB会員として森田富士男氏の入会が承認されました。
(1)報告・審議決定事項
1)討論記録作成規定(改定案?2)(柳生)
柳生会員より改定案?2が提出され了承さ
れた。
2)事務局における会計事務について(上草)
上草会長より、事務局の事務範囲が広範な
ので、会計事務を分離してはどうかとの提案
がなされた。これについてはひき続き検討す
ることとなった。
3)ホ?ムペ?ジのヤフ?登録について(岡谷)
岡谷事務局よりすでにヤフ?に登録手続き
をすませたが、まだ回答がないむね 報告
があった。この件もひき続き検討することに
なった。
(2)研究発表
上草会長より「知とその環境」試論の発表(前半)がなされました。
<討論>
柳生.1:「創唱宗教」(資料8頁)とは、特定の人物を開祖とする宗教の意との
ことであるが、ユダヤ教の開祖は誰か、該当する個人は居ないのではないか?
上草.1:(イエスを開祖とする)キリスト教と同根であるという意味で、挙げた。
柳生.2: 神話ないし宗教は古代に在って包括的機能を担う総合知であった
(資料3、7、9頁)という見解に関して; それが人々の心的・精神的世界を律して
いたのは否めないにせよ、学問・技術・経済・生活全般に及ぶ程のものであった
のだろうか?
上草.2: 権力に密接に結び付いていたことが、重要な点として指摘される。
柳生.3: 権力を正当化する役割を果たし、また神官が学者・技術者を兼ねていた
のは事実であろう。 一方、先頃の「四大文明展」や「中国国宝展」等を見ると、
土木・建築・工芸・器具製作・交易等の世俗的知の領域に於ける、近現代にも
通ずる水準の高さに驚嘆の思いを禁じ得ない。 これらが神話や教義の産物
であるのは愚か、それらに包括される存在であったとは信じ難い。 神官が宗教
儀礼を司る時と、土木工事や天文観測に携る時とでは、同一人物の中に異なる
「知」が分裂したまま、共存していたのではないだろうか。 人類は昔も今も、
「総合知」と呼ぶに相応しい「知」を手にしていたとは、思えない。
柳生.4:「諸知識を有機的に関係づける知恵の形成をする努力は、科学の領域で
さえも必ずしもされていない」(12頁)という判定について; Lavoisier による
「化学革命」は物理学と化学を関係付け、また分子生物学は生物学を物理学・化学
に関係付けたのではなかったのか。 これらの、T. Kuhn 流に言えば「異常科学」は
領域知の限界を突き破る傾向を持ち、その頻度は少ないが、科学知の形成に
決定的な役割を果たしていると思う。
上草.3: 科学の営みの実際は、専門分化が極端に進み、他分野への無関心に
覆われた「蛸壺」的状況に在る。 そのことを指したのである。
柳生.5:「呪いをかけて念ずれば、ある特定の結果が生ずることが予め期待できる
と言うことは、両者(科学の機械論的見方と呪術的知)において同じである ・・・
科学知は呪術知に論理的プロセスを附加したに過ぎない」(13頁)という一節は
理解に困難を覚えるので、正確な意味の説明を求めたい。
上草.4: 科学の客観性・合理性というのは一種の信念である、という意味だ。
異なる信念の下では、結果も異なる。 例えば Euclid 幾何学と非 Euclid 幾何学の
場合もそうで、どちらが真理であると考えるかは個人に依存し、客観的に定め
られることではない。
柳生.6: 科学者が受容する概念体系や第1原理等は、「通常科学」の営みの
基礎ではあるが、常に反駁の可能性に曝されており、不動の信念とは言えない。
またそれらは明確な言葉によって説明し、不特定多数の人々の共通理解を可能に
する(間主観的)という意味で、客観的・合理的である。 こういう特性は科学の
本質に与る一方で、呪術には決定的に欠けている。 両者に於いて同じとは、
到底言えないのではないか。 幾何学の例については、Euclid の第5公準が
他の公理と独立であり、Euclid 幾何学も非 Euclid 幾何学も共に可能である
というのが、論理的な真理であり、数学的には「真理性」に於いて両者を区別
することはできない。 如何なる幾何学が物理的な実世界に適合するかは
経験科学の問題であり、そこでも決着はついていないし、「信念」と言える
ものは無いと思う。
上草.5: 呪術も科学も共に、或る根拠を結果に関係付けている。 そのプロセスは
異なるが、関係付けそのものは、共通する。 そういう点を指摘し、かかる根拠に
対する態度を信念と呼んだのである。
柳生.7: 呪術が行為の出発点である根拠の真偽を問い直すことは無いであろうが、
科学の場合は、根拠(基礎)から導かれた結論は常に経験の審判に掛けられ、
その結果は基礎そのものに反映されて行く。 その意味で科学の基礎は出発点で
あると同時に、終着点でもある。 このことは関係付けの過程が異なるのみならず、
根拠あるいは根拠に対する態度の意味が、科学と呪術とでは全く異なることを示す。
意味の異なるものを仮に同一の単語(即ち「信念」)で呼んでも、どういう意味が
有るのだろうか?
上草. 6[事後の所見]:
上草、1に関し; 哲学事典(平凡社)によると、「創唱宗教とは、特定の人物を開
祖とする宗教」の意味で解説されており、その意味では
ユダヤ教はそれに当てはまりませんので、訂正させていただきます。
上草、2に関し;神話的精神が権力と密接に結びついたのは、農業革命以後の文明社
会化されて以降、特にエジプト文明に見られる。これは、王権を神威を借りて保持す
る為であるとの説があります。このような世界は私が述べたい神話世界(鉄器、文
字、貨幣を用いる文明化以前)とキリスト教の誕生以降の中間的時代に入るのでない
かと考えられます。そのような中間的時代は歴史時代と地域によって、現在に至るま
で極めて複雑に分布してきたのは確かであると思われます。また、「神話がそれを信
じる民族にとっての全てであった」の下りは参考文献を挙げておく所存です。
柳生、4に関して;御説には狭い意味で同意致しますが、科学が分化し始める時代、
すなわち例として、エコール・ポリテクニクに参加したいわゆる科学者には現代で言
うところの複数の学問領域に携わっていた学者が多いし、極端に遡ってアリストテレ
スの業績は、ご承知のように、今日のあらゆる学問領域とクロスしていると言って過
言でありません。むろんそれは、それらの者をして時代がそうさせしめた可能性もあ
ります。ただ、そのように、学問が未分化な時代に生まれ得たことが、絶対的に広い
視野を持ち得たことでもあり、そうであればあるほど、学問領域を自己の生と関わる
意味性の元で展開できる可能性と僥倖を持っていたことになろうと考えられます。こ
れはギリシャの自然学の入ります。しかし、今日的な科学の細分化領域に携わる多く
の研究者は必然的にも、そのような視野を失いつつある傾向にあることは確かだと思
われますし、小論の表現をすれば、多くは「死んだ情報」の生産者になっているのが
現状です。小生の考えはそのような流れでの考えを表明しているものであります。ま
た、柳生先生がおっしゃるように、科学のパラダイムはそのような流れでは生じにく
いものであろうと思われますが、今日的な「小さな科学のパラダイム」は突然変異的
な僥倖に浴さなければ生じがたく、かつ、そのような現象は常に生じうることは当然
のことと思われます。
柳生5,6,7に関して;呪術も科学も信念体系であるとのことを、もう少し説明が
必要と思われます。
小生の図的概念としては、各種プロセス含むをBlack Boxの刺激?応答形と考えて
おります。ある刺激を加えればある結果が期待される、少なくもその体系に対し、そ
のような信念を持つことができる。そのような体系を信念体系と定義したいと考えま
す。その場合、その刺激として、抽象数学では公理、定理あるいはある種の仮定から
出発するものと考えられます。それは間主観的にも正当であると考えられなければな
りません。通常の科学的でもそれはその段階で「信念の産物」でしかありません。小
論でも記述しているごとく、それが間主観的承認を受けているとしても、「絶対客
観」の保証がなされない限り、それは、信念の産物に止まるのです。それが科学の限
界であり、かつ、科学はそれで良いと思うのです。
聞くところによりますと、現在、集合論における公理ないし、定理が再検討されね
ばならないという事態が生じているそうですが、仮にそうであれば、それは大小は抜
きにしても、その領域の信念の変更を意味するものと考えられます。また、新たな間
主観的信念が確定すれば、それに基づくところのある刺激を授ければ、演繹、帰納の
論理的プロセスを経て、正しい結論に達することができる。このプロセスを行使する
者はその体系が真であると信じるが故に実行に移すことができるはずであると考えま
す。
呪術と科学が同じ信念体系である意味は何かの問いにつきましては、少なくもそれ
が「信念」で稼働する限りにおいて、両者において常に過ちを犯す可能性があると言
うことであり、これはむろん、呪術と科学を同時に俯瞰した視点、あるいはその意味
での新たな知恵の視点からの見解と考えることができましょう。
2. 次回(第9回)定例会のお知らせ
日時:13年1月20日(土)
場所:東海大学代々木校舎
司会の決定
1:00?3:30 研究発表
柳生孝昭会員: 「抽象設計論」(角田 譲)の紹介と批判
3:30?4:30 コ?ヒ?ブレ?ク
4:30?5:00 事務的事項の討議
1)次会の学会誌の編集方針の形成
2)前回学会誌の決算予定
3)その他
ニュ?ズレタ? 第9号
2001/3
1.第9回定例会の報告
第9回定例会は、12年1/20,東海大学代々木校舎で開催され、7名(上草、上村、岡谷、辛島、村上、森田、柳生の各氏)の出席がありました。
(1)報告・審議決定事項
1)2000年度学会誌について
・上村先生の分は、上村先生が環境的に執筆できない状況なので、次号にまわ す。
・柳生先生の分は論文ではなく解説とする。
・3月一杯を締め切りとし、間に合う人は早めにメ?ルで原稿を提出する。
・前号でスペルミスがあったので今回は注意する。
・巻頭言は村上氏にお願いする。
・編集方法や印刷方法については次回例会ではっきりさせる。
2)1999年度学会誌の決算について
・次回までに決算書を作成する。
・岡谷会員負担分を除いた残額は投稿者間で負担する。
通信費などもあるので学会の収入はいくらかは残しておく。
2)研究発表
柳生会員より、「抽象設計論(角田 譲)の紹介と批判」の発表がなされました。
<質疑・応答>
辛島(1):Design System(DS)はTheory(T)に含まれないのでしょうか?
柳生(1):DS は T、D(Design Space)及び S(Attribute Space)から構成され ています(資料2頁)。
D と S は双方向の写像によって関係付けられますが、互いに 独立に存在し、一方が他方を含むことはありません。
上草(1):Regularityは公理か定理を意味するのでしょうか?
柳生(2):公理でも定理でもなく、三つの推論規則を容認するということです。
容認しない場合は、他の論理となります。 例えば直観主義論理は、冗長化の規則(資料 3頁
[2.2] )を認めません。
上草(2):その場合、その2つの論理学は矛盾しないでしょうか?
柳生(3):一方の論理に於いて真である(演繹される)命題が他方に於いては真でな い、ということが生じます。
論理体系そのものは、推論に強弱が有る場合が多いもの の、互いに独立です。
[事後の補足]「矛盾」という概念は異なる論理の間ではなく、同一の論理に於いて、一 組の命題群から或る命題、及びその否定が共に演繹される事態を指す。
辛島(2):属性⇒機能はわかりやすいが、仕様⇒機能はわかりにくいですが?
柳生(4):仕様とは、設計の結果が備えるべき働きと、生じてはならない禁則の組合 わせを指します(資料3頁)。
前者を普通「機能」と呼ぶと思いますが、後者も言 わば「否定的な機能」と言えます。
角田理論では共に‘Type’として概念化されて います。
森田(1):角田理論では、暗黙知はいかがなっていますか?
柳生(5):角田理論は、明示的な知のみを扱います。 その明示の仕方は
? T に於い ては仕様 (Γ、Δ) 及び導出関係 Γ├ Γ’
? e:Type(T)→Type(Evt(D)) による機能(σ)の属性(e(σ))への展開
? D の token a が属性値αを持つ、という関係 a |=α
? e*:Token(D)→Token(Cla(T)) a→(Γ、Δ)
小生自身は森田様が言及された小論に触れたように、暗黙知なるものは疑似概念であ ると考えています。
岡谷(1):Fとgが存在するときの設計可能性はありますか?
柳生(6):角田教授の論文には「設計可能性」(designability)という言葉は現れません。
しかし小生は共同研究者の菊池氏との討論を通じ、仰るように理解しております。
森田(2):批判?の機能の表現は、どのようなことをお考えですか?
柳生(7):論理としては1階述語論理を採用します。 しかし機能は単一の主語に帰属 するものとしてではなく、関係する全ての対象に関わる命題の総体、即ち一
つの理 論として捉えます。
辛島(3):「機能」を表現しないとすると、設計全体はどうなるのでしょうか?
柳生(8):所謂設計意図も明示的な表現を与えられるべきものとし、
その表現の中に機能の表現も含ませます。
森田(3):ロータリーエンジンなどのアイデアで、単一アイデアから出発したほうが よい場合がありますが、いかがですか?
柳生(9):角田理論は先ず、設計の全体構造を明かにすることを目指しています。
本 格的な個別事例の考察は、今後の課題です。 また完全な仕様になっていない着想の類
から出発する場合に、それを洗練する過程も、理論化されて然るべきでありましょう。
2.次回(第10回)定例会のお知らせ
日時:13年3月10日(土)午後1時?
場所:東海大学代々木校舎第2会議室
司会の決定
1:00?3:30 研究発表
上草貞雄氏:「知の総合とAALの提案」
3:30?4:30 コ?ヒ?ブレ?ク
4:30?5:00 事務的事項の討議
1)次期学会誌の内容の詰め
・上草会長が表紙を持参なさるそうです。
2)前回会誌の決算
3)次回の発表決定
・なお7月論文発表、または話題提供希望者はお申し出下 さい。